天地明察

映画「天地明察」を見てきました。
まずは、暦学という地味な分野を、よくぞ映画にしてくれた、と賛辞を送りたいです。地味だけど実は重要な国家行事で、国内で統一されていることが必要な分野なのです。基礎的な約束事、共通理解されている事が当然とされている事、で、当たり前であるがゆえに重要なのです。


…と、映画として一定の評価をした上で、天文屋的ツッコミも楽しんで来ました(笑)。いやぁ、ツッコミどころをちゃんと作っておいてくれてうれしいなぁ。あ、もちろん、映画は史実だけでなく、創作部分も多くあります。そこも踏まえた上でのツッコミです。
なお、私はこれを楽しんで書いています。もしも意地悪に感じたら、それは私の言葉不足です。あらかじめ謝ります。ごめんなさい。


時折背景に映る星空ですが、実際の星座を基にしています。写真かな?CGとしても実際の星空のデータを使っていますね。それはとても良いことなのですが、天の川の位置がいい加減に「書かれて」います。せっかく実在の星座を再現しているのに、これ、もったいないです。絵的にバランス良く見えるように、との配慮かもしれませんけど、かえってバランスを壊しています。


今年は5月に金環日食があって、その印象が強いと思いますが、お話に出てきた日食は、皆既日食?それとも金環日食?どちらともとれる描写があるんですけど…。映画の事前の宣伝の画像だと、どう見ても皆既日食です。それが公開が近くなると「江戸時代、金環日食を言い当てた男がいた!」という宣伝文句が出てきます。どっちなの?映像で見るかぎりは皆既日食ですね。コロナも見えるし。んでも金環っぽくも見えるんだよなぁ。ちなみに金環食だと星は見えません。
日食が起きるかどうか勝負する…これは完全にフィクションですね。算哲が予報に失敗した日食は1675年。その翌年?数年後?に、もう一度予報するわけですが、17世紀に京都を通った中心食(皆既食または金環食)はありません。部分食ならあったかもしれませんけど。
でも、映画の中で、太陽を安全に見ようとする配慮が感じられたのは、良かったです。金環食の際にいろいろ広報されたのが大きかったかもしれません。とはいえ、日食グラスに相当するようなもの、あんな濃い色ガラスか何かは当時あったかなぁ?『あれば良かったよねぇ』的に見ていましたけど。


各地を旅して、北極星の高度を計って測地する「北極出地」という話もありました。あれれ、「天の北極」と「北極星」はイコールじゃないけど、その説明はあるのかなぁ、と心配でしたけど、「わずかながらずれている」という説明があってやや安心しました。ただ、測量の時じゃないんですよね…。そして、それを補正した気配はありません。単に北極星の高度を計っただけでしたね。しかも、角度の分まで計っていましたけど、当時の「分」って、「度」の1/60じゃなかったのかなぁ…?それより、せっかく分まで計ったとしても、最大2度もの誤差が出ることになります。そんなわけで、いまいち、「北極出地」の観測の意義を感じられないです。
一方、この北極星の観測の時、観測開始とともに「火を消せ」との号令。これ、良かったですね。リアルですね。天体観測をする時には明かりを消す、これこそ常識中の常識なのです。よくドラマなどである天体観測のシーンで「こんなに明るくちゃ、観測なんてできるわけないでしょ!?」という、撮影用のライトぴかぴかのシーンを見ますので…。


そりゃないよ、と思ったのは、「北斗七星は一年で一回りする」という説明。おいおい…。星空の動きとは、日周運動と年周運動があります。地球の自転と公転によるものですね。1日一回りですから、一晩見ていればずいぶん動きます。くわしく言うと、北斗七星(に限らず全ての星)は1日に「一回りとちょっと」動くのです。この「ちょっと」の動きが公転によるものでして、毎日同じ時刻に観察した場合に限って、「一年で一回りする」と表現することができます。いくら「映画的にその方が良い」からって、星の動きを勝手に変えちゃいけませんぜ。ましてや、星の動きを見つめた男の物語なんですから…。


まぁそんな感じで、天文屋的ツッコミを充分に楽しませてもらいました。
それはともかく、この映画によって、江戸時代の日本の天文学について、少しでも興味を持つ人が増えてくれればと思います。ちなみに、安井算哲は伊能忠敬よりも106歳年上、まるっきり早い時代の人です。


【追記】
映画中、観測所にドームのような半球状の形の開閉式屋根が出てきます。もちろん創作ですが、なかなかよくできています。アイリッド式の開閉方式で、しかも全開します。(回転はしないようです。)これ、作れるなら自分でも欲しくなりましたね。
ただ…全開しちゃうのなら、ドームにする必要はないですね。四角くても問題ないわけです。直方体にして、4方向にそのまま壁を倒す方式でも十分です。でもそれじゃ、映画としてかっこつかないわけで…ああいう形を考えついたんでしょう。


あと、映画を見ていて前半に感じた違和感…。それは『出てくる人が良い人ばかり』ってこと。さわやかなライバル、理解ある師、寛大なお殿様…。実際はこんなもんじゃねーだろー、と、一瞬、白けましたわ。途中から反対派の妨害工作などが出てきますけど、正直、どうなる事かと心配しましたね。
算哲にしたって、自分の職責に厳しい人、何か大きな仕事をやりとげる人って、多少なりとも偏屈なところがあるものですけど、そのへんをうまく美化するのがフィクションの、役目といえば役目なんでしょうね。主人公がイヤなヤツだったら、見る気になりませんからねぇ…。