七夕に思う

今日、7月7日は七夕です。皆さん、星は見えましたか?
私は、奇跡的な梅雨の晴れ間の夜空に、七夕の星と、満月を見ることができました。


子供の頃は、七夕というと、商店街の七夕祭りが楽しみでした。大きな竹の先に色とりどりの飾りがつき、夕方になると歩行者天国(まだこの言葉はありませんでしたけど)になります。商店街のアーケードの上では、いくつかの大きな店が出展した飾りものや、場所によってはアトラクションがあったりして、子供心にそれはもう、わくわくして、毎年楽しみにしていたものです。


しかし、ちょっと成長するにつれ、七夕祭りの見方が変わってきました。星に興味を持ち、星を好きになり、七夕の夜にはお祭り騒ぎよりも「心静かに星を見る」ことを大事にするようになったのです。
天体観測をするようになってから、街明かりは、天体観測を邪魔する「敵」になりました。例えば街灯1つ点いているだけで、観測のために暗闇に順応させた目にとっては非常に邪魔になります。直接、目に入らなくても、街明かりが夜空のバックグラウンドを明るくしてしまい、暗い星が見えなくなってしまうのです。この、人工灯火による夜空の汚染を、われわれ天文マニアは「光害」(こうがい、または、ひかりがい、とも言う)と呼んでいます。*1
七夕祭りに話を戻します。七夕って、本来、星を見上げて、短冊に願い事をする、とても素朴な星まつりだったと思うのです。ところが、商店街の七夕祭りはというと、「星を見る」なんて完全に置いてきぼりで、それどころか夜空を汚す光害をまき散らしているんです。まぁ要するに、商店街が「七夕という言葉を使った人集め」をしているわけなんですね。毎年同じ時期に定期的に開催したいわけですから、季節から連想される言葉なら何でも良いんです。今の私なら「まぁ、商売なんてそんなものさ」と軽く流すところですが、純情な思春期の少年にとっては「不純だ!」と感じられ、何か大人のきたなさの象徴のように感じられ、反発を感じていたものです。


話は飛びますが、「ライトアップ」という言葉がありますね。マスコミが流すこの言葉の取扱いについては大いに不満があります。ニュースなどで「どこそこの観光地で何々がライトアップされました」という時、なぜかいつも好意的なニュアンスで取り上げられます。例えば「若いカップルのいこいの場となっています」なんて。日頃、政治などの批判が得意なキャスターでも、ライトアップの批判は聴いたことがありません。(私が知らないだけだったらごめんなさい。)何となく、ジャーナリズム全体に「ライトアップ=地域の活性化=良いこと」というステレオタイプが蔓延しているような気がするのです。
ライトアップ、ちょっと考えただけでも、このような問題点があるのですけど…

  • エネルギーの無駄遣い
  • 動植物の生態系への影響
  • 夜空を汚染する
  • 景観の破壊
  • 青少年の夜遊びを助長する

私の家のすぐ近くにも外灯があります。あれがなければもう少し天体観測がしやすくなります。でも、防犯のために点いている外灯を消せ、なんて事は言えません。観測より安全の方が優先、それはわかっています。でも、無遠慮に夜空を照らし続ける、例えばパチンコ屋の照明なんかは、また違うと思うんですよね。ようやく最近になって、エコの観点から、そして不況による経費節減から、照明の自主規制みたいなものが始まったようですけど。でも、もっと早く気付いても良かったと思う、今日この頃です。*2

*1:このへんの理屈は、「映画館はなぜ真っ暗なのか」を考えてもらうとわかると思います。または、蛍を捕ってきたときにどんなふうに部屋の中で見るか…って、これはかえってわかりづらいかな?

*2:今年の七夕は「クールアースデイ」ってことで、「ライトダウン」が実施されているそうです。地球に良いんなら毎日やろうよ…!