東京大空襲の日

3月10日、この日は母にとって特別な日です。
1945年、この日の未明、いわゆる東京大空襲がありました。南方海上より飛来したB-29爆撃機による焼夷弾攻撃です。母は、この大空襲の生き残りなのです。また、母の父、私にとって祖父にあたる人は、この夜、行方不明になっています。
当時、母は高等女学校の学生でした。東京は亀戸に住んでいましたが、この空襲で焼け出され、母の母の実家がある茨城に疎開して来たのです。その夜の惨状の話は何度も聴きました。爆撃機焼夷弾、業火、折り重なる焼死体、焼け落ちる橋、生き別れた祖父…。大ざっぱに言うと、原爆投下後の広島に近いものがあったようです。
一時期、今よりもう少し元気だった頃は、地元の公民館や、高校の文化祭などで、戦争の語り部のような事もやっていました。そんな母も、もう80代。本当なら東京の慰霊祭に行きたいようですが、すっかり足腰も衰えて、電車で移動するのはつらいとみえ、ここ数年は行っていません。


今日は、たまたま病院に行く日で、休みをとりました。病院→蕎麦屋→映画→実家というのがいつもの流れですが、実家に行くと、いつも買い物に付き合わされます。少し前なら父の車でどこへでも買い物に行っていたのですが、父も年老いて反射神経も運動神経も鈍くなり、安心して車の運転がさせられる状況ではありません。母もそう思っているようで、極力運転をさせないようにしています。実際、若い頃は車に傷ひとつつけなかった父ですが、今の車はぶつけたりこすったりで傷だらけです…。そんなわけで、私が車で行くといつも買い物要員になるのです。
前も書いたと思いますけど、一緒に買い物するとけっこう疲れます。というのは、まず歩くペースが違います。年寄りなのでゆっくりゆっくり。それに合わせて歩くのです。次に、歳をとって背が低くなり、耳が遠い上に声も小さいので、腰をかがめて話をしないと通じません。そんなわけで、腰をかがめてゆっくりゆっくりカートを押しながら買い物をすることになります。いやー、たいへんです。自分も老人になったみたいです。まぁ、母親と一緒に買い物ができるのも今のうちだと思い、なんとかつきあっています。
それでも、足腰が弱っているとはいえ、まだエスカレーターには乗れる程度ですし、何より、自立歩行ができている時点で、世の老人の中ではかなりましな方なんでしょうね。それと、物忘れはひどくなっていますが、まだボケていない事も非常にありがたいことです。


帰ってから、今日は珍しく、父と話がはずみました。『東京大空襲の頃、どこで何をしてたの?』という話です。父は、その頃は海軍の少年兵で、予科連にいました。1945年の2月は広島県に出張していたそうです。広島の西部にいて、休日に広島市まで映画を見に行ったこと。とにかく食べ物がなかったこと。予科連でグライダーを飛ばしたこと。当直の夜は肉の入ったカレーが食べられたこと。終戦の頃は新潟県の通信兵の学校にいたこと。などなど。こんなに饒舌に若い頃の事を語る父は、初めて見たような気がします。もしかして、これ、冥土のみやげかもしれません…。息子として、父親の事が知らないことだらけなのを恥じつつ、聴き入りました。


父の話、母の話、果たしてあと何度、じっくり聴く機会があることやら。なるべく機会を多くして、いろいろ聴いておきたいと思います。話を聴くこともそうですし、親の事を知ることも、ささやかな親孝行なんじゃないかと、そんな気がしています。